長尾豊喜 = 内神道開祖の縁生を眺める 。また何故に老子経の自然道を修めたかを眺める。
  
 内神道を創始した長尾豊喜開祖をよく知りたいとの会員様の要望が多いのに答えて開かれたサイトです。

 幼き頃の縁です。まず、横綱
双葉山、鉄腕稲生和久、軍神広瀬中佐瀧廉太郎)の項を、お読みください。

                       筑波道場の敷地の草を切る道長宗家の姿

 

 

  草を切る道長宗家図( 筑波山=道場から)












幼少期に受けた郷里の三人の英雄たちの薫陶=

     郷里大分を巡る「双葉山」

        (昭和31年)

        内神道PHOTO

 久住ほか大分の地を巡る双葉山関
  貧しく苦しい時期に「相撲道」を樹立させた、

  大分が生んだ偉大な士であった。


  内神道の開祖は、このサムライ(士)をまずは

  人生の師に定めたのだ。















 
 

 不滅の69連勝。大横綱双葉山、

 幼少時に兄妹を亡くし、母も亡

 くす。

 父が莫大な借金を負い、船に

 乗って父を助ける。

 その船の事故で右指小指を、

 削がれる。

 片目も、弓で射られて失明

 船の事故で父子して半死に。

 奇跡的に一命をとりとめる。

 「あの時亡くなる筈でありました。

 私はどんな苦難も越えなくては

 相すまぬと考えました」

 双葉山は「から与えられた命」

 だと自覚した。

 頭もよく、小さな子供たちによく

 ノートや豆など与えて優しかった

 という。

 人格すぐれ、法華経を読み、

 を書き、戦後の相撲界を優れた

 哲学でくみ上げた。

 もう、このようなサムライは出な

 いと言われる。

 「われ いまだ 木鶏 たりえず」

 69連勝が止まった時の言葉で

 あった。




























  
  
 【幼少時に、双葉山に受けた薫陶】

  長尾豊喜は「次郎物語」を地でゆく。母親の胎に入るとすぐに親戚、祖父母によっ堕胎を強要された。

  父親の喜男が必死で抵抗して漸く生をうけた。しかし出生後は父方の叔母連中の苛めが残酷に行われた。

  叔父叔母合わせると20人以上の大家族の、長男長女の親戚結婚故に苦労の多い家庭で育った。農事に

  両親がいないとき家に居ると命の危険があった。近所の農家の嫁たちが虐待を眺めて、家に置いていては

  殺されると進言した。こうして長尾豊喜は一里(4キロ)も離れた田圃まで母親に連れていってもらうようにな

  った。

  「あのころ、一日田圃の淵の石の上に坐っていた。母親はおとなしいいい子だったというが、そうではない。

  静かにしていることが唯一生きることのできる道だったのだ……」――道長宗家の回想から

  4歳の時に藁(わら)切りで右指二本の尖を失う。疲れた母親が誤って切り落としたのだ。

  「心配しなくてもよい。たいしたことではないのだ。わしは平気だ」

  4歳の子供が母親を慰めた。母親はそこに泣き崩れたという。有名な話として残っている。


  大分県竹田市の久住町という土地は、超一級の僻地だった。

  戦後、そこに双葉山が来た。

  今日の相撲とりや国技館を長尾豊喜は評価しない。なぜならこのころの双葉山に人生を学んだからであった。

  貧困とGHQの圧力に耐えながらも今日の相撲界の礎が組みあがったのは、この横綱がいたからにほかなら

  ない。どん底からの、そして極貧からの人生の再スタートは敗戦というみじめな状況から始まっていた。

  横柄で金に汚く、たいして頭もよくない国技館の経営陣を、国技館演武会でイヤというほど学ばさせられた。

  「呪われろ! 国技館」――道長宗家の国技館演武会終了後の一言。

  その後、国技館は殺人事件や八百長問題で揺れ、一時は場所の開催もできなくなった。

  不思議だが、道長宗家を支援すべきだったのに、責任を果たさなかった親方は、国技館演武会後、二週間

  も経たないうちに、卒中で死んでしまった。

  「もったいなくて、双葉関とは同郷だと、奴らには一言も言わなかった……。双葉関が道長宗家よ、申し

  わけがない。許してほしい……。そう謝ってくれていたのだが、横柄な奴らにはわかりもしなかったろう」

    ――道長宗家の回想から

  「自分は指二本が削がれている。しかし双葉関は指がおなじように無いばかりでなく、片目も弓でつぶれて

  いる。

  しか も、船でおぼれて一度は死なれている。西郷南洲公と同じく、そこに神仏を観られた方であった」

  長尾豊喜はこれを神と尊敬した。魂も誠意も強さも人格も超一級の武神だったのだ。


  4歳の子は、父親に木刀を作ってもらった。

  父親はよく、

  「流されるはずの子だったのになあ……」

  そう笑いながらも、この子には、不思議な力があると、頼りにした。 


  父親に「双葉」という漢字と「豊喜」という漢字を教えてもらった。

  これを、丁寧に小刀で木刀に刻んだ。

  毎日、この「双葉豊喜」の名刀(?)=木刀を振って双葉山の魂を自分の内に溜めた。

  これが幼少時に、長尾豊喜が双葉山から受けた薫陶の証しであった。


                        
 
 

       櫓を漕ぐ「稲尾和久」

  西鉄ライオンズへスカウト前の別府湾にて

         内神道PHOTO

    別府湾で櫓を漕ぐ稲尾和久

 極貧の中で両親を大切にし「鉄腕稲尾」に

 成長していった大分が生んだ、偉大な士で

 であった。

 内神道の開祖は、このサムライ(士)の功績

 に縁を感じたし、運命の出会いをしてゆくこと

 になる。




























  

 誰も「鉄腕稲尾」と「双葉山」の
 
 接点を知らない。

 年間42勝、日本シリーズの全

 七戦を全部投げるなど、今日の

 投手ではできない。違法就労と

 言われ裁判沙汰にもなろう。

 稲尾の父は、別府の横綱であり

 いつも宇佐八幡の相撲大会では

 優勝して米や酒を獲得して別府

 に凱旋していた。ある日、 しかし 

 稲尾の父は敗れて別府に帰って

 きた。この時稲尾の父親を倒した

 のが若き双葉山だったという。

 稲尾の父は、まだ相撲界に入る

 前の少年双葉に投げられたこと

 を、いつも自慢にしていたという。

 双葉山関は稲尾を食事に招いて、

 その話を聞き、大いに感じ入って

 いたという。

 極貧の貧乏家庭ながら、豊かな

 心の両親に育てられ、また漁師

 の家庭ゆえに、貧しくとも、魚骨

 を食すことや、小学校からの漁の

 手伝いでの足腰の訓練が、丈夫

 な心と身体を育んだという。





























 

 【幼少時に稲尾和久に受けた薫陶】

  長尾豊喜が稲尾和久を尊敬したのは、昭和38年の奇跡の逆転リーグ優勝のときであった。

  「神様、仏様、稲尾様」が、当時の大分県での合言葉であった。最後の近鉄4連戦を4連勝したとき

  実に奇跡力を有した方だと感動したという。


  肩を壊して、日本シリーズでは巨人相手に、遂に7戦目に力尽きたが、

  「第6戦での、苦痛をこらえての、王、長島を抑え込んでの「6対0」完封には、鬼神稲尾の最後の底

  力を眺めさせてもらった」――道長宗家の回想から


  昭和36年、稲尾和久投手は、道長宗家に大きなプレゼントをしている。

  それは、長尾豊喜の誕生日に、最多勝利数42と、最多三振353を後楽園球場で達成したのである。

  長尾豊喜が不思議だったのは、そこからで、彼が野球をする際は、ピッチャーをする時に「居合投げ」と

  言いながら投げ込んだことである。稲尾和久の投法に「居合」の極意を観たというのである。

  将来の長尾豊喜を予言するようなことだが

  「ただ、スッと、投げる静けさが氣にいっていたのだ。武道を観たのだろう」――道長宗家の回想から


  ここからの、稲尾和久と長尾豊喜との関係は因縁に支配されている。

  稲尾は、その後西鉄ライオンズの監督に就任するが、三島のヨガ道場に出入りするようになる。

  貧乏と父親の竹棒で殴られるげんこつで育ったような男だから、空腹感も精神のタフさも桁違いの、

  この士にとって、東尾投手他2名の育ちの甘さが我慢ならなかった。並べて往復ビンタを食らわせた

  うえに、ヨガ道場に送り込んでしまう。

  メシも食わせなければ、早朝から座禅のようなことを強要するし、まっぱだかで冬の池に飛び込ませ

  る、というメチャクチャ(?)なことをやらせる道場には、稲尾の盟友の三上光治老師(国際総合ヨガ

  日本協会副会長)がいた。

  浩宮皇太子殿下が入門された時も、その道場ではビンタを宮様に食らわせているくらいだから、それ

  推してみるべし、であった。

  この三上光治老師がのちに長尾豊喜夫妻の仲人になった行者であるから因縁は不思議である。

  「わたしには三人の月下老人(実質の仲人)が居た。渡邊信雄教授、稲尾和久投手、そして誰より

  三上光治老師には、お世話になった」――道長宗家回想から


  出会うべくして出会った。天がその必要性を認められたということだろうか。

  稲尾和久は亡くなる寸前まで、道長宗家に手紙を書き、そして誠を尽くした。

  幼いころに、自分の誕生日に、偉大な奇跡を見せてくれた神様であった。

  その神様は、また、双葉 山とも縁を持ち、稲尾和久の父親は生涯を双葉関のファンとして誇りを有

  していたという。


  以下は稲尾和久が長尾豊喜が執筆した書物に寄せた紹介文である――
 
  「私は20年ほどヨガをやってきた。「」というもので長尾豊喜老師とは通じ合う。

  野球の世界のことをいえば、そこで道を追及すると、やはり、力を抜いて自然体を大切にすることが

  いい成績を残す極意といえるかもしれない。長尾豊喜老師の自然を説くことの価値を思うし、これか

  らの日本国にとって必要な精神エネルギーを、お持ちの方だと深くご信頼いたしている」

 
 


        広瀬武夫 海軍中佐

          内神道PHOTO

    広瀬武夫海軍中佐

  旅順港にて爆弾を受けた。小指しか残らな

  かった。豊後竹田市の生んだ軍人だった。

  「杉野は何処!」

  最後の瞬間まで部下を探して叫んでいたと

  いう。

















  










































































 広瀬武夫は竹田の英雄だった。

 豪胆で、伝説に溢れていた。

 広瀬には親しい同級生が二人居

 た。

 一人は秋山真之、もう一人が、

 長尾喜代太郎だった。

 この二人とは、明治の軍人訓練

 において久しく交わっただろうし、

 また、ともに、日露戦争では苦難

 をわけあった。

 秋山真之は、もちろんバルチック

 艦隊を破った海軍参謀である。

 そして長尾喜代太郎は近衛騎兵

 で、明治天皇に仕え、奉天陥落に

 閑院宮載仁親王殿下(かんいんの

 みやことひとしんのう)とともに、

 活躍した武人であった。

 黒木部隊救援に出て、氷点下30

 度の敵地を、ほとんど7日を眠ら

 ず行軍したというから凄い。

 この長尾喜代太郎は秋山真之

 の兄、秋山好古フランス式の

 馬術を教わった。

 広瀬は、戦争を嫌っていた。

 ロシアを愛し、ロシアの姫御との

 恋に落ちていた。

 また、瀧廉太郎と親友だった。

 瀧廉太郎との竹田、岡城での、

 別れの宴は、夢伝説である……。

 「荒城の月」……

 この名曲は、瀧廉太郎が広瀬に

 贈呈した曲だとの説もある。





















































 
  【幼少時に広瀬武夫に受けた薫陶】

  どこの書物にも出ていないが、竹田市久住町の伝説では広瀬武夫は、海軍の新兵検査において

  「尻の穴」の検査を受けていた際に、ひとつのエピソードを持つ。

  豪胆な性格でユーモアもあった漢で、その時検査官をしていた医師に、大きな音で

  「バーン!」

  と、オナラを吹きかけたという。


  医師は、思わず

  「よーし。甲種合格!」

  と叫んだという。


  ゆかいな話だが、このような人物だから、幼い長尾豊喜が親しみを覚えたのも当然であった。

  郷里の大先輩として、特に「卑怯をしない」、どこまでも「誠実に」を学ばせてもらったという。


  長尾豊喜の誕生日は、曾祖父の長尾喜代太郎と同じであった。

  だけに、「生まれ変わり」というような眼が親族にあったようだ。

  そして、この長尾喜代太郎は、日清、日露の戦争に出て、帰国後は昭和天皇にも仕えた人で

  議員にもなったが、なんせ堅物で、親戚からは恐れられた人物であったようだ。

  議員時代(村長)には、あまりグズグズいうので、他の議員らは金を出し合って四国の温泉を

  プレゼントし、いない隙に議会を強行採決したという話が残っている。


  長尾豊喜が祖父母や、父方の叔母たちにいじめを受けた背景は、この長尾喜代太郎に似た

  風格を持って いたからかもしれない。


  長尾豊喜は小学校3年の時、父親と大船山の尾根を越えて、法華院温泉まで馬で登る旅を

  した。父親は馬術に自信があったようだが、子供は尻が痛くてたまらなくなった。ついに馬から

  降りて、馬と競争して走る方を選んだ。

  これは、長尾喜代太郎が、父の喜男が幼いころに、やはり馬に乗せて法華院に登ったのを真

  似て、今度は、自分が子にこれを行ってみたのであろう。

  而して、長尾喜代太郎は馬術の腕はフランス術仕込みのプロであった。

  「父の喜男はそこが理解できていなかったようだ」――道長宗家の回想

  さて、長尾喜代太郎と広瀬武夫関係の書付がある。ここではその紹介は省く。


  長尾豊喜は、当時の大分の僻地ではありえないような幸運に出会った。

  大分に国体の開催地の順番が回ってきていて、吹奏楽部で活動することになった。

  そして「アルトサクソフオーン」という、当時では珍しい楽器を引き受ける。


  その縁で、竹田の「瀧廉太郎祭」で、「荒城の月組曲」のソロ演奏の部分を吹くことに。

  幼い長尾豊喜にとって、これは広瀬武夫と瀧廉太郎を慰霊する絶好の機会になった。


  遠き先祖は、「一の谷」の戦(いくさ)で戦ったという。

  相模平家の一門で、三浦一族にしたがって、伊勢平氏の平清盛一族を討つべく戦った戦

  であった。

  そのような先祖の因縁もあったものか、長尾豊喜は広瀬武夫の最期の哀れを、いつも瞑想

  して育った。

  「水師営の会見」「青葉の笛」など、泣きながら父親とともにうたったという。


  戦争讃歌などではない……。

  父の長尾喜男白襷(たすき)隊で戦争に召集された。

  全国の百姓の長男が集められて、死を強要された部隊に送られたのだ。

  護衛艦もなく戦地に向かったが、そんな馬鹿な送り方をしたのは日本軍くらいだった。

  魚雷を食って、タンカーに乗せられていた千人万人の兵士がただ四方海の中に放り出されて

  何日も海に漂った挙句に絶望に涙し、そして母親の名を呼びながら死んでいったという……。

  父親は、できれば自分が変わって死にたかったのだ……。


  数万の戦友の命が散ったなかで自分ばかりが、奇跡的に生き延びて、ただ戦友にすまないと

  いう念にかられ続けた――という……。

  故国に帰国した父親の思いと、広瀬武夫の思い、遠き先祖たちの思いに、重なる部分がある。

  心豊かな開祖の感性は、「故郷」と「ささやかな家庭の平和」がいかに大切かを、正に久住に於

  いて、 幼児期からずっと、学び続けたのである。


  そして、広瀬武夫と瀧廉太郎とは、長尾豊喜に「武士道」を刻む下地を打ったのである。

 

     
     
     

 

             

 

    老子家長尾豊喜先生の
      老子哲学文化館

  


     老子哲学文化館は、2007年1月開館しました。一門の門弟たちは、長尾豊喜先生の文化哲学の浸透が、必ず日本と世界
      に希望と確かな現実を与えてくださることを思っております。また、我々門弟たちは、つくばと、先生の先祖の地の相馬に、実
      際にこの文化館を設立企画いたしております。 



       

       長尾豊喜先生の宇宙的人間論世界の基礎


       長尾豊喜先生の宇宙的人間学世界の基礎をなした二大哲学は、「敬天愛人」と「生命の畏敬」でした。
      そして、老子経からは「道法自然」でした。

敬天愛人
                       ー西郷南洲が好んだ陽明学からの言葉。内村鑑三先生は世界で読まれた「代表的日本人」の書物

                        によって、西郷南洲を世界に知らしめました。映画、「ラストサムライ」は、西郷南洲がモデルです。



  ーシュヴァイツアー博士の文化人類学的悟りの哲学です。
                          生命の畏敬


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        この長尾豊喜先生の老子哲学文化館への散策について―― 

    
  幼い頃の久住連山の大自然から人生をスタートされ、北海道大学と同じく 深くW・S・クラーク博士の影響
  を受けた国立大分高専の文化哲学と、その精神からの内村鑑三先生の武士道、シュヴァイツアー博士の
  人類愛を得た長尾豊喜先生が、苦難の道から悟られた精神と、その資料の展示が観られます。 
                                    
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□お知らせ

 「現在、文化館は閉館いたしました。
  新しく、各階に、展示資料を整理するためであります。しばらく開館を、お待ち願っております。」
  
                                                         老子哲学文化館入場口 → 


老子の世界                                           道徳経 



  

 長尾豊喜先生が代表を勤められる組織団体 

   

                    内閣府認証法人 世界多聞内神道武道連盟 多聞内神道 →
                    内閣府認証法人 世界多聞内神道武道連盟グループ 多聞内神道武道 →
                    茨城県認証環境NPO法人 NPO法人筑波山環境クラブ →
                    都心の多聞内神道本部道場 太極拳長江会・新宿 →
                    多聞内神道グループの事業本部 太極拳長江会 →
                    楊式太極拳の宗家 多聞内神道會 →       
                    なお、長尾豊喜公式サイト 老子経真論公式サイト →      


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       Lao-tze 老子 from about 655 B,C. Disciple Of Toyoki Nagaol Rights Reserved

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